大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和30年(行)116号 判決 1961年8月15日

原告 雨宮金蔵

被告 国 外五名

訴訟代理人 田中端穂 外二名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

原告訴訟代理人は「一、別紙目録記載の各土地が原告の所有に属することを確認する。二、被告国は原告に対し、別紙目録第一号ないし第一二号の土地につき昭和二七年二月一八日東京法務局江戸川出張所受付第一、一二一号、同第一三号ないし第一六号の土地につき昭和二九年六月一七日同出張所受付第六、六二七号をもつてそれぞれなされた各昭和二三年一〇月二日付買収を原因とする同被告のための所有権取得登記及び同第一七号の土地につき昭和二九年六月二四日同出張所受付第六、六八六号をもつてなされた昭和二四年一〇月二日付買収を原因とする同被告のための所有権取得登記の各抹消登記手続をせよ。三、被告田中吉造、同須原音次郎、同石井作次郎、同長島英一、同長島登は原告に対し、いずれも昭和二三年一〇月二日付売渡を原因とする右各被告のための左記各所有権取得登記の各抹消登記手続をせよ。(1)被告田中吉造については、別紙目録第二号の土地につき昭和二九年一月三〇日東京法務局江戸川出張所受付第七二六号の登記、(2)被告須原音次郎については、同三、四号の土地につき同日同出張所受付同号の登記、(3)被告石井作次郎については、同第五、六号の土地につき同日同出張所受付同号の登記、(4)被告長島英一については、同第七ないし第九号の土地につき同日同出張所受付同号の登記、(5)被告長島豊については、同第一〇ないし、第一二号の土地につき同日同出張所受付同号の登記並びに同第一三ないし第一六号の土地につき昭和二九年七月一二日同出張所受付第七、五九〇号の登記、四、訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決を求め、被告国指定代理人及び被告田中外四名訴訟代理人は、それぞれ主文と同旨の判決を求めた。

第二、原告の請求原因

一、原告は別紙目録記載の各土地(以下本件土地という)の所有者であるところ、被告国は昭和二三年一〇月二日(但し、第一七号の土地については昭和二四年一〇月二日)本件各土地を自作農創設特別措置法第三条に基づいて買収処分をしたとして、請求の趣旨第二項のような登記手続をしたまた、昭和二三年一〇月二日他の被告らに対し同法第一六条に基づいて本件各土地(但し、第一号及び第一七号の土地を除く。)売渡し、請求の趣旨第三項のような登記手続をした。

二、しかしながら、右買収処分は次に述べるように不存在または無効のものであり、被告らはこれによつて本件土地の所有権を取得していないから、原告に対して右各所有権取得登記を抹消すべき義務がある。

(一)  本件土地について買収処分は存在しない。東京都知事は第一ないし第一六号の土地に関する買収処分につき、買収金を原告に交付していない、したがつて、本件買収処分は、第一ないし第一六号の土地についてはすでに右の理由によつて成立していないというべきであるが、更に仮に右第一ないし第一六号の土地につき買収令書の交付があつたとしても、右第一ないし第一六号の土地及び前記第一七号の土地に関する各買収計画において被買収者として表示されているのは「東京都江東区亀戸町九丁目二四一番地(右一七号の土地については、同町五丁目一六一番地)雨宮金蔵」であるところ、原告の住所は本件買収計画樹立の当時から現在に至るまで東京都江戸川区小松川二丁目四五番地であつて、同都江東区亀戸町にはかつて居住したことはない。そして、このように住所が異なる以上、人の同一性は認められないから、結局本件土地については、原告に対する関係において買収計画が定められたこともなく、その後の手続がなされたこともないこととなる。したがつてこの意味においても本件買収処分は存在しない。

(二)  仮に、本件買収処分が存在しているとしても、すくなくとも右の事由は手続上重大なかしというべきものであるから本件買収処分は無効の処分である。

(三)  原告が本件買収当時は本件各土地につきいわゆる在村地主であつたことは上述したところから明らかであるから、これを不在地主と認定していた本件買収処分は、この点からも無効というべきである。

(四)  また、第一七号の土地は、登記面のみでなく現況においても全部が宅地であつた。仮に現況においてその一部が農地であつたとしても、そのことによつて第一七号の土地全部を買収することは違法であるのみならず、原告は訴外石井阿久利にこの土地を賃貸していたが、それは宅地としてであつたから、右土地は小作地ではないものというべきであり、したがつて右土地を小作地としてした本件買収処分は無効である。

第三、被告らの答弁及び主張

一、答弁

原告主張の第二の一の事実は認める。第二の二のうち、本件各買収計画において原告の住所が、東京都江東区亀戸町九丁目二四一番地または同町五丁目一六一番地となつていることは認める。その余の原告主張事実はすべて争う。

二、本件買収処分は適法有効になされたものであつて、原告の主張は理由がない。

(一)  本件買収処分は、次のように適法な手続を経て成立している。すなわち東京都江戸川区農地委員会は、第一ないし第一六号の土地につき昭和二三年九月二〇日買収計画を樹立し、同日その旨公告をし、翌二一日から一〇日間右計画を縦覧に供し、同年一〇月二日東京都農地委員会は右計画を承認した。そこで東京都知事は、昭和二四年二月末頃、右買収計画における原告の住所である東京都江東区亀戸町九丁目二四一番地にあて同年一月三〇日付買収令書を郵送したところ、住所不明の理由で返戻されたので、再調査のうえ、同年三月一五日原告の新住所である千葉県千葉郡津田沼町谷津一、〇八二番地にあて右買収令書を郵送交付した。次に江戸川区農地委員会は、第一七号の土地につき、昭和二四年九月一九日買収計画を樹立し、翌二〇日その旨公告をし、翌二一日から一〇日間右計画を縦覧に供し、同年一〇月二日東京都農地委員会は右計画を承認した。そこで東京都知事は、同月右一七号の土地についての買収計画の上で原告の住所とせられた東京都江東区亀戸町五丁目一六一番地にあて買収令書を郵送したが、前同様の理由により返戻され、その後交付にかわる公告をしていたが、右公告は無効であるため、東京都知事は、改めて農地法施行法第二条第一項第一号に基づき、昭和三二年五月二八日原告の現在の住所である東京都江戸川区小松川二丁目四五番地にあて同年四月三〇日付の買収令書を郵送、交付した。そこで本件買収処分は、右各買収計画において定められている各買収の時期、すなわち、前者にあつては昭和二三年一〇月二日、後者にあつては昭和二四年一〇月二日においてそれぞれその効力を生じたものである。

(二)  また、本件買収処分は、その内容においてもなんらの違法がない。原告は本件買収当時在村地主であつたと主張するが、右買収の時期である昭和二三年一〇月二日および昭和二四年一〇月二日当時原告の住所は前記千葉県千葉郡津田沼町に在つたのであるから、不在地主であることは明らかである。仮に在村地主であつたとしても、そのかしは明白とはいえないから、これにより本件買収処分を無効ということはできない。なお、第一七号の土地は、登記簿上宅地となつているけれども、現況が全部農地であつて、かつ、小作地であつたから、これを買収しても違法ではない。

第四、被告らの主張に対する原告の陳述

被告等主張の第三の一の(一)のうち、本件各土地に関する買収及び売渡計画が、(原告の表示を欠く点を除き)被告ら主張のように定められ、公告、縦覧の手続を経て承認されたこと第一七号の土地につき買収令書の交付がなされたことは認めるが、第一ないし第一六号の土地につき東京都知事が亀戸町又は津田沼町にあて買収令書を原告に郵送交付した事実および昭和二三年ないし昭和二四年当時原告の住所が千葉県津田沼町に在つたことはいずれも否認する。原告は戦前から同町に住宅を所有していたが、これは原告の別宅で、病気の折時々静養のため利用したことがあるにすぎず、かつて、同所を生活の本拠としたことはない。

第五、証拠関係<省略>

理由

一、原告がもと本件土地の所有者であつたこと、被告国が昭和二三年一〇月二日(たゞし第一七号の土地については昭和二四年一〇月二日)本件各土地につき、自作農創設特別措置法第三条に基づき買収処分をしたとして、原告主張のとおり買収処分を原因とする所有権取得登記手続をなし、昭和二三年一〇月二日他の被告らに対し同法第一六条に基づき右各土地(但し、第一号及び第一七号の土地を除く。)を売渡し、原告主張のとおり右売渡処分を原因とする所有権移転登記手続がなされたことは当事者間に争いがない。

二、原告は、本件土地に対する買収処分は存在しないと主張する。東京都江戸川区農地委員会が、第一ないし第一六号の土地につき昭和二三年九月二〇日買収計画を定め、同日その旨公告をし翌二一日から一〇日間右計画を縦覧に供し、東京都農地委員会は同年一〇月二日右計画を承認したこと、更に江戸川区農地委員会は、第一七号の土地につき昭和二四年九月一九日買収計画を定め、翌二〇日その旨公告をし、翌二一日から一〇日間右計画を縦覧に供し、同年一〇月二日東京都農地委員会は右計画を承認したこと、東京都知事は、昭和三二年五月二八日右第一七号の土地につき原告に対し肩書地にあて同年四月三〇日付買収令書の郵送、交付したことはいずれも当事者間に争いがない。そこで次に第一ないし第一六号の土地につき買収令書の交付があつたかどうかについて判断する。成立に争のない乙第三、第四(買収令書の控)、第五号証の各記載と証人高野次郎の証言によれば、江戸川区農地委員会は、原告を登記簿記載の住所である江戸川区小松川二丁目四五番地でなく千葉県千葉郡津田沼町谷津に住所を有する不在地主と認めて第一ないし第一六号の土地に関する買収計画を定めたが、右買収計画書には誤つて江東区亀戸町九丁目二四一番地と記載したため、買収令書にも原告の住所としてその旨が記載され、同令書は右誤記に係る江東区亀戸町九丁目二四一番地に送付されたが、受取人不明として返戻されたので、同委員会は右の誤りに気づき、改めて昭和二四年三月一五日所轄の津田沼町農地委員会に対し、右令書を原告に交付するよう回送した事実が認められる。そして右津田沼町農地委員会が右令書を原告に交付した事実とこれを証明する直接の証拠はないが、前掲乙第四、第五号証及び原告名下の印影が原告の印章によるものであることは当事者間に争いがないから真正に成立したものと推定すべき(本件にあらわれたすべての証拠によるも右推定を動かし、右印影が原告の意思に基づかないで成立したものであることを疑わしめるものはない。)乙第六号証の一(対価領収委任状)、成立に争いのない乙第一一号証の原告名下の印影と対比して同一の印影と認められるから原告の印章による印影と認むべく、したがつて原告作成名義の部分は真正に成立したものと推定すべく(本件にあらわれたすべての証拠によるも右推定を動かし、右印影が原告の真意に基づかないで成立したものであることを疑わしめるものはない。)その余の部分の成立は証人椙尾久男の証言及び文書の体裁によつてこれを認めうる乙第七号証(農地買収対価及び報償金支払通知書)の各記載をあわせると、原告は昭和二四年三月本件第一ないし第一六号の農地買収に対する対価受領の委任状を農地委員会に提出し、昭和二五年一月二五日日本勧業銀行千葉支店より買収対価を受領し受領印を押捺していることが認められ、以上認定の事実に、成立に争いのない乙第六号証の二、三の記載と証人高野次郎の証言により認めうる買収令書は買収令書の受領証、買収対価受領の権限を株式会社日本勧業銀行に委任する旨の委任状と共に一枚の用紙に印刷され、被買収者は買収令書を受領したとき右添附の受領証、委任状を切りはなし、その相当欄に署名捺印した上、市町村農地委員会に提出し、後日令書及び実印を日本勧業銀行に持参して対価を受領する取扱いが採用されていた事実および高野証人の証言をあわせると、津田沼町農地委員会は前記昭和二四年三月頃本件第一号ないし第一六号の農地についての前記買収令書を原告に交付し、原告はこれを受領したものと認めるのが相当である。

もつとも原告の存在及び成立について争いのない甲第二九号証によれば、東京農地事務局長が、大蔵大臣あてに提出した農地証券発行請求書中には委任状未提出者として「令書番号九五八号、額面額五、〇〇〇円江東区亀戸町九ノ二四一雨宮金蔵」と記載された後「金蔵」が抹消され「金次郎」とペン字で訂正された上、昭和二五年一〇月四日付で日本勧業銀行(本店)が買収対価を支払つた旨のゴム印を押捺している事実が認められ、一方前掲乙第四第七号証によれば、原告の令書番号も同様九五八号、買収対価のうち証券払金額が五、〇〇〇円であることが認められ、また証人雨宮敬次郎の証言および原告本人尋問の結果によると、雨宮金次郎なる者が前記亀戸町九丁目に居住していたことがある事実が認められるので、これらの事実からすると、原告に対する前記買収令書に基づいて対価を受領したのは原告ではなく、右雨宮金次郎で、同人が原告あての令書を受け取り、これを持参して対価の交付を受けたかにみられないこともない。しかし原告が対価受領についての委任状を日本勧業銀行千葉支店に提出して対価を受領し、受領印を押捺していることは、前記のように乙第六号証の一および第七号証によつて動かし難いところであり、他方証人椙尾久男の証言によれば、右甲第二九号証に記載されている農地証券の交付は、被買収者が委任状を提出して対価を受領しない場合の対価の支払方法であつて、地方農地事務局長から大蔵大臣あての請求に基づいて大蔵省理財局長から交付通知書が被買収者あてに発行され、被買収者が右交付通知書を日本勧業銀行(本店又は支店)に持参して農地証券の交付を受ける手続となつていること、右甲第二十九号証のような記載がなされたのは、当時、日本勧業銀行千葉支店において右のように対価の支払がなされたのにかかわらず、さらに江東区亀戸町九ノ二四一雨宮金蔵あて農地証券交付の手続がとられたところ、同町九丁目に住む雨宮金次郎が農地証券交付通知書を持参したので、日本勧業銀行本店の係員において「雨宮金蔵」が「雨宮金次郎」の誤記であると認め、訂正の上同人に農地証券を交付したことによるものであること、買収対価の支払に関して同銀行本店で取り扱うのは、東京都内在住の被買収者に関するものに限られ、千葉県在住の被買収者に対する対価の支払は同銀行千葉支店で取り扱うこととなつていることがそれぞれ認められ、これらの事実に徴するときは、同銀行本店における雨宮金次郎に対する買収対価の支払が、いかなる経緯によるものでありまたそれが正当な対価の支払があるか否かにかかわらず、同人に対する上記方法による対価支払を証明する前記甲第二九号証の記載は、上記原告が日本勧業銀行千葉支店において委任状を提出して買収対価を受領した事実となんら牴触するものではなく、これによつて右の認定を左右するに足るものではないといわなければならない。証人雨宮敬次郎、同雨宮久子の各証言、原告本人尋問の結果中前記認定に反する部分はたやすく採用し難く、他に前認定を覆し、原告に令書の交付がなかつた事実を認めしめるに足る証拠はない。したがつて買収令書の不交付を理由に、第一ないし第一六号の土地に対する買収処分の不成立ないしは無効を主張する原告の主張は理由がない。

三、次に、原告は、第一ないし第一七号の土地に関する各買収計画において、被買収者として表示されているのは「東京都江東区亀戸町九丁目二四一番地(第一七号の土地については同町五丁目一六一番地)雨宮金蔵」であるところ、原告の住所は右と異なるから、両名の間に同一性が認められず、結局原告に対する買収計画樹立以後の手続は存在しないと主張する。右各買収計画中に原告の住所として原告主張の記載があることは当事者間に争いがないが、前掲乙第三、第四号証及び成立に争いのない乙第九、第一〇号証によれ、各買収計画書および買収令書中には被買収者たる原告の氏名が記載され、かつ、買収目的地として原告所有の本件各土地が表示されていることが認められ、本件買収手続が、本件土地につきその所有者たる原告を買収の相手方として行われたものであることは明らかであるから上記のごとき住所の誤記は、被買収者の同一性ないし特定性につき影響を与えるものではない。したがつて原告の右主張も採用し難い。

四、次に原告は、買収処分当時江戸川区小松川二丁目四五番地に住所を有していた在村地主であるから、これを不在地主と認定してした本件買収処分は当然無効であると主張するので判断する。成立に争いのない甲第四三号証、乙第一一号証、第一三号証、許可印及び受付印の成立は当事者間に争いなく、その他の部分は原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第二八号証及び証人雨宮敬次郎、同金子銀蔵、同江森ぎん、同雨宮久子、同石井伝吉の各証言並びに原告本人尋問の結果を総合すると、次の事実を認めることができる。雨宮家は数代前から江戸川区小松川二丁目四五番地に居住し、原告も戦前より同所に自宅、工場を構え、金属ボタン等の製造業を営んでいたものであるが、戦争が激化するにつれ戦災の危険を感じ、疎開の目的で昭和一八年頃千葉県千葉郡津田沼町谷津一八一二番地に土地約一四〇〇坪を購入し、その頃右地上に平家建居宅(建坪約三〇坪)を建築した。その後右別宅に荷物を疎開し、留守番をおき、週末など時々利用していたが、食糧事情が窮迫すると共に原告や原告の妻等が赴いて右土地のうち約一、〇〇〇坪に甘藷、小麦等を栽培し、自家消費にあてていたところ、昭和二〇年三月一〇日の空襲により小松川の自宅工場は全焼し、家族全員は谷津の別宅に移転するのやむなきに至つた。その後息子敬次郎が復員したので、原告夫婦、敬次郎夫婦、その子供二名、敬次郎の弟二名、女中らが同所に起居し、原告、敬次郎らは二、三日おきに焼跡の整理に通つて焼け残つた機械等の整備にあたり、間もなく焼跡に三畳敷位のバラツク建の小屋を作り、食事や休憩の際利用したり、時には原告の息子達が寝泊りしていたが、昭和二一年四月頃同所に住居兼事務所として建坪六坪五合の建物を新築し(同年九月頃六坪増築)たので、敬次郎夫婦子供二人はその頃谷津から引揚げ、同所に居住し、更に兵舎の払下げを受けて工場を建て、敬次郎が家業の中心となつて働いていた。一方原告は、谷津の前記住宅に起臥寝食し、同所において生活物資の配給を受け、同所から小松川に毎日ないしは二、三日おきに通勤し、家業の相談や外来者の応待等に従事していたところ、昭和二四年八月脳溢血のため右谷津の家で倒れ、その後引続き同所で療養につとめ、昭和二九年ころ妻と共にやうやく小松川に新築した家に引移り、今日に至つている。このように認めることができる。

(証人雨宮敬次郎、同江森ぎんは、原告は食事はすべて小松川の家ですまし谷津の家では単に寝泊りするだけであつたと証言するが、証人雨宮久子の証言によれば、前記小松川の住居における生活状況は、建物も手狭で、食事等についての設備も悪かつたことが認められ、相当高令の原告が妻とは別にかかる設備の悪く、かつ、物資の乏しい小松川の家で毎食の食事をしていたというようなことは、普通では考えられないところであるのみならず、敬次郎の妻である雨宮久子証人自身原告が単に昼食を同所でとつていたにすぎない旨証言していることから考えても、前記各証言部分はいずれも直ちに信を措くことはできず、他に上記認定を左右するに足る証拠はない。)

そして右事実によつて考えれば、原告は戦災によりやむなく谷津の家に起居するようになつたものの、すでにそのことのあるを予想して前から別宅を建築し、荷物を疎開させていたのであり、戦災後は同所で妻や敬次郎夫妻を除くその他の家族とともに起臥寝食し、また配給も同所で受けており、前記小松川所在の家には老令の原告に代つて事実上家業の主体となつていた敬次郎夫妻が居住し、原告自身は病気で倒れるまで四年余の間電車で小松川まで通勤して家族の相談や外来者との応待等に当つていたというのであるから、よし原告の主観において右谷津における起臥寝食が早晩小松川に移転するまでの暫定的なものにすぎなかつたにせよ、客観的には相当期間にわたつて上記の如き生活状況が継続している以上、その間における原告の住所は、小松川ではなく、前記津田沼町谷津一八一二番地にあつたものと認めるのが相当である。

もつとも、成立に争いのない甲第四号証の一、二、第五号証、第七、八号証、第二七号証、第三四号証、第三七号証、第三八号証及び郵便官署作成部分の成立は争いなく、その余の部分は原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第二号証、原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第一号証、第三号証、第三五号証の一ないし三、第三六号証の一、二、第三九号証の一、二、第四〇号証の一ないし四及び証人雨宮敬次郎の証言並びに原告本人尋問の結果を合わせると、住民票の記載では、原告は昭和二〇年一一月二〇日から昭和二七年七月三〇日まで小松川に居住した後、同日津田沼へ転出し、昭和三十年六月二十一日再び小松川へ転入したことになつており、昭和二三年度分都民税及区民税も江戸川区に納入していること、昭和二三年五月一三日小松川中学校建設資金の寄附をしていること、昭和二二年から二四年にかけ小松川の家に原告あての郵便が配達されていること、昭和二四年三月三〇日江戸川区長に対し昭和二三年度分水利組合費を納入していること、戦災後も引続き小松川信用組合理事の職にあり、小松川においても近所付合いをしていること等の事実が認められるが、右は原告が小松川で営業を営み財産を所有していたこと、又昭和二十七年七月三十日まで津田沼町において寄留ないし住民登録(住民登録法は同年七月一日から施行)の手続を採らなかつたこと等の理由によつて生じたものであつて、いずれも住所認定の決定的な事由とはなし難い。その他に上記認定を覆えし、原告の住所が当時小松川にあつたと認むべき証拠はない。

以上の次第で、第一ないし第一六号の土地につき買収計画が定められた昭和二三年九月二〇日、買収処分がなされた昭和二四年三月ころ、第一七号の土地につき買収計画が定められた同年九月一九日当時においては、原告は本件土地の所在地には住所を有していなかつたのであるから、原告を不在地主としてなされた本件買収処分にはなんらの違法はないといわなければならない。もつとも、第一七号の土地について買収令書が原告に交付されたのは昭和三二年五月二八日であり、その当時にはすでに原告は小松川に住所を移転していたことは上記認定のとおりであるが、不在地主であるか在村地主であるかは買収計画樹立の時を基準として決すべく、買収計画当時不在地主であつた者がその後買収処分の時までの間に住所を移転し、在村地主となつたとしても依然不在地主として買収処分をすることを妨げないと解することが相当であるから、結局右第一七号の土地についても、本件買収処分に在村地主を不在地主と誤つた違法はないといわなければならない。よつて原告の上記主張は理由がない。

(なお、右のような事実関係においては少くとも、本件買収処分につき、重大、明白な瑕疵があつたものといえないことは明らかである。)

五、原告は、第一七号の土地は買収処分当時現況宅地であるのみならず、訴外石井阿久利に宅地として賃貸したものであるから、小作地ではないと主張する。しかしながら右主張を肯認するに足る確証は一つもなく、かえつて成立に争いのない甲第三〇号証、第三一号証、証人石井寛の証言により真正に成立したと認められる乙第一四号証に同証言及び証人石井伝吉、同雨宮敬次郎の各証言並びに原告本人尋問の結果を合わせると、第一七号の土地一三二坪はもと西篠崎町五七八番の二宅地五五坪と共に一筆の土地であつて、被告石井作次郎は戦前より右土地を原告の差配人亀井一真から畑地として使用するため賃借し耕作の目的に供していたものであること、昭和二三、四年ころ右地上の一部(同番の二の土地の部分に該当する)に倒潰寸前の木造萱葺平家建物(建坪八坪七合五勺)が存在したが、江戸川区農地委員会は、右土地全部を不在地主の所有する小作農地として買収したこと、その後昭和三三年二月一日東京都知事は、右土地のうち同番の二に該当する部分五五坪の買収、売渡処分を取り消し、右土地を同番の一(第一七号の土地)と同番の二に分筆した結果同番の二の土地は原告に復帰したこと、以上の事実を認めることができる。したがつて、第一七号の土地を含む旧篠崎町五七八番の土地一三二坪全部を農地として買収した当初の処分の適否はともかく、その後において建物の敷地にあたる部分について右処分が一部取り消された以上、残余の現況畑地であり、被告石井が権原にもとづいて耕作していた第一七号の土地の部分の買収処分にはなんらの違法が存しなくなつたものというべきであるから、原告の右主張もまた採用できない。

六、よつて原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 位野木益雄 中村治朗 時岡泰)

(別紙目録省略)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例